riaru308のブログ

日々の出来事を忘れないように綴ります

どっちがいい?

 

 

私は骨壷を抱きしめて泣いた。

冷たくて、硬くて、小さな骨壷。

桃色の布には

楽しそうな動物や星の絵が刺繍されている。

あれから4年の月日が流れた。

 

私が18歳の頃、小さな子犬と出会った。

私たちは毎日を一緒に過ごした。

買い物に行くのも、ご飯を食べるのも、

夜眠るときも、いつも一緒に。

毎日いろんな話をした。

今日あったこと、これからのこと、

明日は何をしようかとか、

こないだ行った公園にまた行こうかとか。

散歩に出かければ花の名前を教えた。

虫や猫もいた。ぜんぶ教えた。

たくさんの言葉をわかるようになって

散歩と言えば準備をして待ってる。

ご飯と言えばはしゃぐ。

出かけると言うと私のハンドバッグに入って待ってる。

旅行だと言うとキャリーケースに入って待ってる。

お留守番と言えば、諦めて、

お風呂と言えば、逃げようとして、

名前を呼ぶと、飛びついてきて喜ぶ。

いたずらをした時はバツの悪そうな顔をしていたけど

私が叱るともう同じことは繰り返さない

とても頭のいい子だった。

その子は写真に写るのもとても得意で

新しい服を買えば写真を撮り

綺麗な景色を見つければ写真を撮り

いつもカメラ目線で

ときには楽しそうに走って。

私たちはたくさんの時間を共に過ごしたように思う。

 

それは寒い冬の日だった。

私は信じたくなかった。

名前を呼んだらいつものように

嬉しそうに飛びついてきてくれないか

ご飯だよって言えば

嬉しそうに走ってきてくれないか

お風呂だよって言えば、、

そんな願いは叶うはずもなく

冷たくなった体には力もない。

ほんの少し前まで、

目をキラキラさせて飛びついてきてくれたのに。

大好きなおやつを目の前にしても、

私が抱き上げても、もう何の反応もなかった。

 

お別れの日までの数日間

タオルに包んで、散歩に出かけた。

椿の花が咲いていた。

いつもと違うことと言えば

その子が動かなくなったこと。

お散歩用のリードが必要じゃなくなったこと。

私が泣いていたこと。

フレンチブルドッグと散歩中のおばさんに

「あら、小さくて可愛い…赤ちゃんなのかしら?」

と言われ、咄嗟にタオルで隠して

笑ってごまかして歩いた。

 

また春が来て、桜が咲いたら

花見に行ったり、写真を撮ったり、

夏が来たら、外が暑くないうちに

散歩に出たり、浜辺を走ったり

秋が来れば落ち葉の上で遊んで

冬が来たらまた、同じ毛布で眠って。

それが当たり前だと思っていた。

 

生きる気力がなくなった。

私はずっと、その子に生かされていた。

その子に質のいい食事をさせたくて。

その子に可愛い服を着て欲しくて。

楽しいという気持ちで満たされてほしくて、

毎日、安心して眠って欲しくて。

 

だからもう私には何もなかった。

生きていても、楽しいことなんてない。

その子が死んでいったのに、

私だけが生きるなんて申し訳ないし、

その子が寂しがるから、

早く死ななきゃと思ったりもした。

家族や友人の励ましもあったが、

何を言われても心には響いてこなくて。

そして何度も自分を責めた。

あの時私があの子と出会わなかったら、

こういう結果にはならなかったんじゃないか。

あの子が私のところに来なければ

あの子は今も生きていたかもしれない。

私が幸せであることは罪だと思った。

私は最低の親だ。

死ぬなんて甘っちょろい罰で許されるものか。

この世で、死ぬよりも辛いことを受けながら

もがき苦しんで生きる必要があると思ったりもした。

時にやさぐれて、

朝から晩までひとりで飲み続けたりもした。

あんなに好きだった友人達との花見や

バーベキューや、海水浴、

何ひとつ楽しいと思えなくなり、

いつも気づいたら涙が出てしまい、

周りに人がいようが関係なく取り乱してしまう。

そんな日々が長いこと続いた。

1年目なんて

言葉じゃ言い表せないくらいにとても辛かった。

でも私以上にあの子は苦しかったんだと思うと

もっともっと自分を痛めつけなければ、

という使命感のようなものもあった。

2年目の冬も、寂しくて仕方なくて、

まだ現実を受け入れきれていなかった。

やっと心から笑うことができるようになったのは

3年目の冬が過ぎた頃だった気がする。

それも叔母が、

「あんたがいつまでもメソメソしていたらうたちゃん成仏できないよ、ママ大丈夫かな、って心配して、いつまで経っても楽になれないよ、うたちゃんのママなら心配かけることはやめなさい。あんたが幸せでいることが成仏になるから。苦しむとか罰を受けるとかそういう考え方はやめなさい。そんなの、うたちゃんがもっと悲しむよ。」

と言ってくれたことがきっかけで、

妄想に生きている部分があった当時の私は

我が子に迷惑や心配をかけまいと

立ち直る努力をすることを決めたのだった。

 

そうして、

そういえば私最近、泣かなくなったなぁなんて

少し前まではいつも悲しい気持ちや

罪深い気持ちが心にあって

誰と何をしていても、どこにいても、

生きてていいのか?おいしいご飯を食べていいのか?

笑ってていいのか?楽しいと思っていいのか?

毎日安心して眠って、こんなことが許されるのか?

って思ったりしていたのに

最近それがなくなったなぁなんて、

生前のその子を知る友人と

思い出話もできるようになって

泣いたりはしたけど、笑ったりもして、

懐かしいね、可愛かったよね、

なんて言えたりもして、

やっと動物の出てくる番組を見れるようになったり

実際に動物と触れ合えるようになったり、

たまにペットショップに行ったりもした。

だんだん落ち込む時間が減っていた。

写真をじっと見て泣くことも減っていた。

毎晩抱いて泣いていた骨壷も部屋の隅に、

いつも持ち歩いていた犬歯を入れたネックレスも部屋の隅に。

 

そして4年目を迎えた。

命日や誕生日、出会った日、なんにもない日、

いろんな瞬間で思い出すことはあったし

たまに泣いているけど、気持ちは前向き。

寂しいけど、現実と向き合っていると思う。

もしも願いがたったひとつだけ叶うなら

1秒だっていいからまた会いたいけど

そんなの無理だって頭でわかっている。

だから、まだ完全には

現実を受け入れきれていないかもしれないけど

いまは生きる理由もある。

楽しいこともある。嬉しいこともある。

 

あの子と過ごしていた日々は

とってもとっても楽しかったけど、

それがなくなってから毎日本当につまらなくて

悲しい気持ちにばかりなっていたけど、

今、あの子と過ごしていた時のように

また毎日が楽しいと思えている。

楽しさの種類や、そこにうつる景色、

それらを彩ってくれている存在は変わったけど、

楽しいことには変わりないと胸を張って

正直な気持ちとして自信持って言える。

やっとそうなれたと思っている。

じゃあどうして今更こんな記事を書いているのか

どうして今日また、骨壷を抱いて泣いているのか。

 

数日前、あの子が夢に出てきた。

死後、夢に出てくるのは頻繁にあることで

それは火葬の日から始まって

誕生日や命日などの記念日はもちろん、

そうじゃないなんにもない日でも

よく会いに来てくれている。

私がその時会いたいと思っていなくても

急に出てきて遊んでくれたりする。

それが私の自己満足な妄想だとしても

あの子は私に会いに来てくれているんだ。

 

火葬の日はお別れを言いに来たような不思議な夢。

他は生前のように遊んだりしている夢とか、

私がペットショップに犬を見に行った日には

それを嫌がるかのように夢に出てきてアピールしたり。

 

数日前の夢は、私の部屋の隅で

生前使っていたキャリーケースの中で

ボロボロの姿でもがいているあの子。

”ここから出して”そう取れた。

目を覚ました私はすぐにわかった。

その場所の近くには骨壷がある。

最近すっかり忘れていた。

本当に可哀想なことをしてしまったと思う。

抱き上げて、ごめんね、と謝った。

久しぶりにこの手に抱いた骨壷。

こんなに軽かったっけ。

そういえばこのくらいの重さだったかな、

小さな体で飛びついてきて

いつも私の腕の中にいたな、

ふわふわで、あったかくて、

小さくて、可愛くて。

しばらく泣いた。

 

次に出てきた言葉は”どうしたい?”だった。

このままこの子は私のところにいていいのだろうか。

ペットの墓というものもある。

毎月住職が来て、お経を上げてくれたりする

そういった場所があるのは知っていて

この子を火葬したとき

行ったこともあるし、パンフレットももらっている。

当時絶対に離れたくなかった私はもちろん連れ帰ったし、

生前のあの子は私がいないとすぐ騒いで

必死に私を探していたので

ちょっとトイレ、と思っても一瞬も離れられなくて

逆に私の方が呆れ果てる程だった。

だからお墓にいれるなんて

そんな可哀想なことは絶対にできない!

と胸に決めていた。

しかし少なくともこの一年は、

ほとんど骨壷に触れることがなかった。

たまに撫でたり、声をかけたりしたけど

部屋の隅にあることの方がほとんど。

あの時胸に決めていたはずなのに

前向きになればなるほど気にしなくなってしまって

気づけば寂しい思いをさせてしまっていた。

 

あの子は何を伝えに来たのだろう。

久しぶりに抱いてほしかったのか

そろそろちゃんとお墓にいれてあげることを

考えてほしかったのか。

あの子はどうしてほしいのだろう。

この一年ほとんど触れもしなかったくせに

都合のいいことを言ってしまうが

いざ離れるとなると、それは悲しい。

 

こうしてたまに抱いてあげたりしていれば

あの子は許してくれるだろうか。

楽になれるだろうか。

お墓にいれてあげることと

そばに置いておくこと

どっちがいいのだろう。

ねぇ、どっちがいい?

 

 

 

 

最近、よく泣いている。

正月に死んだおじいさんのことを思い出して

悲しくて泣いてしまう。

そして今日は犬のこと。

だから春は嫌いだ。なぜかいつも悲しくなる。

落ち込む時間が長くなる。

寒い冬が終わりを告げることが、桜が咲くことが、

こんなにも嬉しいのに。

どうして?